19世紀後半のイタリアにおいて、国家の威信をかけて帝国主義的な拡大を推し進めた人物が、サヴォイア家のウンベルト1世です。彼は父ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世の跡を継ぎ、イタリア王国の国王として君臨しましたが、その治世は外交的な野心と国内の激しい社会不安という、対照的な二つの側面を持っていました。
主要な事実(Key Facts)
- 在位期間: 1878年1月9日から1900年7月29日まで。
- 外交政策: ドイツ、オーストリア=ハンガリーとの「三国同盟」を締結し、軍事的な結びつきを強化した。
- 植民地拡大: エリトリアやソマリアへの進出を推進し、イタリア植民地帝国の基礎を築いた。
- 軍事的挫折: エチオピアへの侵攻を試みたが、「アドワの戦い」で壊滅的な敗北を喫した。
- 最期: 1900年、アナーキストのガエターノ・ブレッシによって暗殺された。
若き日の軍歴と王位継承
1844年にトリノで生まれたウンベルトは、幼少期から軍事教育を受けました。わずか14歳でソルフェリーノの戦いに参加し、その後のイタリア独立戦争でも指揮官として活躍するなど、強い軍国主義的な傾向を持っていました。


当時のサヴォイア家は、他の欧州王室や教皇庁との関係が悪化していたため、ふさわしい結婚相手を見つけるのに苦労しました。しかし、最終的にサヴォイア家のマルゲリータと結婚し、後のヴィットーリオ・エマヌエーレ3世をもうけます。


1878年、父の死を受けて国王に即位した彼は、先代の慣習に従わず「ウンベルト1世」という称号を採用しました。また、父の遺骸を王家の霊廟ではなく、ローマのパンテオンに埋葬することを決定しました。

帝国への野心と外交戦略
ウンベルト1世は、イタリアを欧州の強国として認めさせるため、積極的な外交と領土拡大を追求しました。1882年にはドイツおよびオーストリア=ハンガリーとの三国同盟を正式に結成し、国際的な地位の安定を図りました。


特にアフリカへの関心は強く、エリトリアのマッサワ占領(1885年)やソマリアへの進出を後押ししました。彼は、国民の強い反対を押し切ってまでエチオピアの征服を望み、権威主義的なフランチェスコ・クリスピー首相を支持しました。クリスピーは汚職スキャンダルにまみれていましたが、王は「国家の利益」を優先し、彼を重用し続けました。
しかし、この野心は1896年の「アドワの戦い」での大敗という形で最悪の結果を招きます。この敗北により、王の権威は失墜し、国内では共和制を求めるデモが激化しました。

国内の混乱と暗殺への道
国外での挫折と並行して、国内では経済不安による社会不安が高まっていました。1898年、パンの価格高騰に抗議するデモが発生すると、フィオレンツォ・ババ・ベッカリス将軍による武力弾圧が行われ、多くの市民が犠牲となりました。ウンベルト1世はこの弾圧を称賛し、将軍に勲章を授与したため、労働者階級の怒りは頂点に達しました。

1900年7月29日、モンツァでの軍事パレードからの帰り道、イタリア系アメリカ人のアナーキスト、ガエターノ・ブレッシによって射殺されました。ブレッシは、ババ・ベッカリスの虐殺に対する復讐としてこの犯行に及び、「私はウンベルトを殺したのではない。国王という原理を殺したのだ」という言葉を残しました。

ウンベルト1世の基本データまとめ
| 項目 | 詳細 |
|---|---|
| フルネーム | ウンベルト・ラニエーリ・カルロ・エマヌエーレ・ジョヴァンニ・マリア・フェルディナンド・エウジェニオ・ディ・サヴォイア |
| 出生・没年 | 1844年3月14日 - 1900年7月29日 |
| 配偶者 | マルゲリータ・ディ・サヴォイア |
| 主な外交成果 | 三国同盟の形成、アフリカ植民地の獲得 |
| 埋葬地 | ローマ、パンテオン |
Frequently Asked Questions
ウンベルト1世が三国同盟を結んだ理由は何ですか?
イタリアを欧州の主要国として認めさせ、外交的な孤立を避けるためです。ドイツおよびオーストリア=ハンガリーと軍事的に結びつくことで、国家の安全保障と国際的な地位の向上を狙いました。
アドワの戦いがもたらした影響とは?
エチオピアに対する侵攻に失敗し、イタリア軍が壊滅的な打撃を受けたことで、ウンベルト1世の帝国主義的な政策への不満が爆発しました。これにより、国内で王政反対や共和制を求める運動が激化しました。
ババ・ベッカリスの虐殺とはどのような事件ですか?
1898年にミラノで起きたパン価格高騰への抗議デモに対し、軍が砲撃や射撃で弾圧した事件です。多くの死傷者が出ましたが、王がこの弾圧を称賛したことが、後の暗殺の直接的な動機となりました。
暗殺者のガエターノ・ブレッシはどのような人物でしたか?
イタリア系アメリカ人のアナーキストです。彼はババ・ベッカリスの虐殺で犠牲になった労働者階級への復讐を誓い、イタリアに戻って国王を暗殺しました。その後、獄中で自ら命を絶ったとされています。
ウンベルト1世の後継者は誰でしたか?
息子のヴィットーリオ・エマヌエーレ3世が後を継ぎました。彼は父とは対照的に、後に亡命しエジプトで没するという波乱の人生を歩むことになります。
References
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