かつてのアメリカ映画界には、作品の内容を厳格に管理する強力な検閲体制が存在しました。その中心人物となったのが、ジョセフ・ブリーンです。彼はカトリック共同体で影響力を持つ人物であり、ジャーナリストとしての経歴を持っていました。1930年代から50年代にかけて、彼は映画の道徳的基準を決定づける権限を握り、世界中の映画制作に多大な影響を与えました。

ハリウッド検閲体制の確立とPCAの誕生

1930年代初頭、映画業界は外部からの強い圧力にさらされていました。1933年に設立された「カトリック全国品位連盟(National Legion of Decency)」が独自に映画の格付けを行い、不道徳とみなした作品へのボイコットを呼びかけたためです。これにプロテスタントや女性団体も同調し、業界の収益悪化が懸念されました。

当時、映画製作・配給協会(MPPDA)のウィル・H・ヘイズは、緩やかな自主規制を導入していましたが、実効性は低い状態でした。そこでヘイズは、より厳格な管理を行うために「プロダクション・コード管理局(PCA)」を新設し、その責任者にブリーンを任命しました。1934年7月1日から施行されたこの新体制では、PCAの承認印(スタンプ)がない映画は全米の劇場で上映できず、違反した製作者には2万5,000ドルの罰金が科せられるという、拘束力のある強力な制度となりました。

権力の絶頂と政治的・思想的偏向

ブリーンの権限は極めて強大で、1936年にはリバティ誌が「ムッソリーニやヒトラー、スターリンよりも世界の思考を標準化させる影響力を持っている」と評するほどでした。しかし、その権力はしばしば個人の偏見や政治的意図に利用されました。

ブリーンは1930年代初頭、書簡の中で激しい反ユダヤ主義的な表現を用いていたことが分かっています。また、ナチス・ドイツの代表者であるゲオルク・ギュスリングと協力関係にありました。彼は、ユダヤ人映画製作者がナチスによる迫害を映画の題材にすることを「プロパガンダ」であるとして警戒し、ドイツ側を刺激することを避けるよう業界に圧力をかけました。

具体的には、シンクレア・ルイスの反ファシズム小説『It Can't Happen Here』の映画化を計画していたMGMに対し、60箇所以上の修正を要求して断念させました。また、小説『Three Comrades』の映画化に際しても、悪役をナチスから変更させるよう求め、ナチスの暴力やテロリズムを連想させないよう指示しました。

思想の転換と権力の衰退

ブリーンが公に反ユダヤ主義を否定したのは1939年7月のことでした。これは、教皇ピウス11世がキリスト教徒による反ユダヤ主義への参加を否定したことや、カトリック団体による反対運動、そしてヘイズ・コードの起草者であるマーティン・J・クイグリーらの働きかけによるものでした。

1941年に一度「過労」を理由にPCAを辞任し、RKOピクチャーズのゼネラルマネージャーを経験した後、1942年に再びPCAへ復帰したブリーンでしたが、1950年代に入るとその権威は揺らぎ始めます。サミュエル・ゴールドウィンなどの有力者がコードの改訂を公に要求し、ハワード・ヒューズはPCAの承認を得ないまま、ジェーン・ラッセルの露出度の高い水着姿が登場する『The French Line』を公開しました。

さらに1951年には、オットー・プレミンジャー監督の『The Moon Is Blue』が台詞の内容を理由に承認を拒否されましたが、ユナイテッド・アーティスツ社が彼を支持し、承認なしで公開を強行しました。こうした流れの中で、ブリーンは1954年に引退し、後任にジェフリー・シャーロックを迎えました。引退時に彼は、コードの管理における功績を認められ、名誉アカデミー賞を授与されています。

Key Facts

  • PCAの権限: 1934年以降、PCAの承認印がない映画は全米の劇場で上映できず、違反には2万5,000ドルの罰金が課された。
  • 政治的介入: ナチスによる迫害などのテーマを避けさせ、反ファシズム作品の修正や断念を強いた。
  • 思想的変遷: 初期は激しい反ユダヤ主義的な傾向があったが、1939年に教皇の意向や周囲の圧力により公的に否定した。
  • 体制の崩壊: 1950年代、ハワード・ヒューズやオットー・プレミンジャーらが承認なしに映画を公開したことで、検閲の効力は低下した。
期間 主な役割・出来事 検閲の影響力
1931年〜1933年 ウィル・H・ヘイズの下でトラブルシューターとして活動 限定的(自主規制段階)
1934年〜1941年 PCA初代局長として就任。プロダクション・コードを厳格に運用 絶大(法的・経済的拘束力あり)
1942年〜1954年 PCAに復帰後、次第に業界の反発に直面し引退 衰退(承認なしの公開事例が増加)

Frequently Asked Questions

プロダクション・コード管理局(PCA)とは何でしたか?

MPPDA(映画製作・配給協会)の下に設置された部門で、映画の内容が道徳的基準(プロダクション・コード)に適合しているかを審査し、承認印を与える権限を持っていました。この印がない作品は全米での上映が事実上不可能でした。

ブリーンはなぜナチスに関する映画に反対したのですか?

彼は、ナチスの残虐行為を描くことがプロパガンダになると考え、またアメリカ国内に存在する親ドイツ感情や反ユダヤ主義的な人々の反感を買うことを恐れたためです。

ブリーンの反ユダヤ主義的な考えはいつ変わったのですか?

1939年7月に公に否定しました。これは教皇ピウス11世の声明や、カトリック共同体内部からの強い働きかけがあったためと考えられています。

検閲体制が崩れた決定的な要因は何ですか?

1950年代に入り、映画製作者たちがPCAの承認を得ずに作品を公開し始めたことです。特にハワード・ヒューズやオットー・プレミンジャーによる強行突破が、コードの権威を失墜させました。

ブリーンは最終的にどのように評価されましたか?

多くの論争や政治的介入があった一方で、引退時にはプロダクション・コードを誠実かつ威厳を持って管理したとして、名誉アカデミー賞を授与されました。