20世紀のヴァイオリン界において、比類なき明晰さと洗練された技巧で知られたのがネイサン・ミルステインです。ロシア帝国で生まれ、アメリカで市民権を得た彼は、音楽的な伝統を継承しながらも、独自の完璧主義を貫いた演奏家でした。その音楽人生は、偉大な師との出会い、親友との共演、そして究極の楽器への到達というドラマに満ちています。
Key Facts
- 師系:伝説的な指導者レオポルド・アウアーに師事し、ロシア・ヴァイオリン派の正統な系譜を継承。
- 親友:ピアニストのウラディミール・ホロヴィッツと生涯にわたる深い友情を築いた。
- 愛器:1716年製ストラディバリウス「ゴールドマン」を、妻と娘にちなみ「マリア・テレサ」と改名して愛用。
- 功績:1975年にグラミー賞を受賞し、フランスのレジオン・ドヌール勲章やケネディセンター名誉賞を授与された。
音楽的ルーツと研鑽の時代
ミルステインは、音楽的な背景を持たない中産階級のユダヤ人家庭に生まれました。5歳でヴァイオリンを始めた彼は、オデッサの著名な教師ピョートル・ストリャルスキーのもとで基礎を築きます。その後、11歳でサンクトペテルブルク音楽院のレオポルド・アウアーに招かれ、厳しい指導のもとで才能を開花させました。アウアーとの出会いは、彼がロシアの伝統的なヴァイオリン奏法を身につける決定的な機会となりました。
また、ベルギーのユージン・イザイにも師事しましたが、ミルステイン自身はイザイから技術的な教えを多く得たわけではなく、むしろ自立して思考することを学んだ時期であったと回想しています。
ホロヴィッツとの黄金のパートナーシップ
1921年、ミルステインはピアニストのウラディミール・ホロヴィッツとその妹レジーナと出会います。この出会いが、音楽史に残る強固な友情の始まりとなりました。二人は「革命の子ら」としてソ連全土で共演し、1923年にはプロコフィエフのヴァイオリン協奏曲第1番のソ連プレミアを、わずか19歳という若さで成功させました。
ミルステインは後に、ホロヴィッツのような偉大なピアニストが伴奏を務めるならば、オーケストラは不要であると感じたほど、彼との音楽的な共鳴を高く評価していました。二人の協力関係は1925年の西欧ツアーへと続き、世界的な名声を確立する礎となりました。
完璧主義の追求と芸術的到達点
1929年にアメリカでデビューしたミルステインは、後にニューヨークに定住し、アメリカ市民権を取得しました。彼の演奏スタイルの核心にあったのは、一音一音を完璧に分節化(アーティキュレーション)することへの執念です。理想の音色を実現するため、指使い(フィンガリング)の検討に膨大な時間を費やすことで知られていました。
演奏家としてだけでなく、編曲家や作曲家としても活動し、パガニーニの作品に基づいた変奏曲集『パガニニアーナ』などを書き残しています。また、1945年に手に入れた1716年製ストラディバリウスを「マリア・テレサ」と名付け、生涯の伴侶としました。
| 項目 | 詳細 |
|---|---|
| 主な師 | レオポルド・アウアー、ピョートル・ストリャルスキー、ユージン・イザイ |
| 重要な共演者 | ウラディミール・ホロヴィッツ |
| 使用楽器 | 1716年製ストラディバリウス(マリア・テレサ) |
| 主な受賞歴 | グラミー賞(1975年)、レジオン・ドヌール勲章(1968年) |
| 代表的な自作 | パガニニアーナ(Paganiniana) |
晩年と遺産
82歳になっても衰えない驚異的な技巧を維持していたミルステインでしたが、不運な転倒による左手の重傷が、彼の演奏家としてのキャリアに終止符を打ちました。晩年は回想録『ロシアから西へ(From Russia to the West)』を出版し、ストラヴィンスキーやラフマニノフといった同時代の巨匠たちとの交流を記録しました。
1992年12月21日、ロンドンにて心臓麻痺により88歳でこの世を去りましたが、彼が追求した「純粋で完璧な音」への姿勢は、今も多くのヴァイオリニストに影響を与え続けています。
Frequently Asked Questions
ミルステインが使用していたヴァイオリンは何ですか?
1945年に入手した1716年製のストラディバリウス(旧ゴールドマン)を、妻テレゼと娘マリアにちなんで「マリア・テレサ」と名付け、生涯使用しました。また、1710年製のex-Danclaストラディバリウスでも演奏していました。
ウラディミール・ホロヴィッツとはどのような関係でしたか?
1921年に出会い、生涯にわたる親友となりました。若き日にソ連全土で共演し、プロコフィエフの協奏曲プレミアを共に行うなど、音楽的にも非常に深い信頼関係で結ばれていました。
彼の演奏スタイルの特徴は何でしたか?
極めて高い精度での音の分節化(アーティキュレーション)にこだわり、完璧な指使いを追求するストイックな姿勢が特徴でした。これにより、非常に明晰で洗練された演奏を実現していました。
どのような教育を受けたのでしょうか?
オデッサのストリャルスキーに学び、その後サンクトペテルブルク音楽院のレオポルド・アウアーに師事しました。また、ベルギーのユージン・イザイのもとでも学びましたが、自立した思考を重視するスタイルを確立しました。
晩年に出版した著書の内容は?
回想録『ロシアから西へ』の中で、自身の演奏生活や社交について綴っています。また、プロコフィエフやストラヴィンスキー、トスカニーニといった親交のあった作曲家や指揮者の人物像についても触れています。
References
- Milstein, Nathan at JVL
- High Fidelity, November 1977, 84, 86. As quoted in Schwarz, 443.
- Auer, Leopold, My Long Life in Music, 343–344. As quoted in Schwarz, 443.
- High Fidelity, November 1977, 86. As quoted in Schwarz, Boris, Great Masters of the Violin (New York: Simon and Schuster, 1983), p. 444.
- Schwarz, 443.
- Quoted in Steinberg, 350.
- Steinberg, 350.
- Schwarz, Boris (2001). "Milstein, Nathan". Grove Music Online. Oxford University Press. :10.1093/gmo/9781561592630.article.18714. Retrieved June 12, 2023.
- D. Kern Holoman The Orchestra: A Very Short Introduction 2012 Page 107 "The first classical LP was the Mendelssohn Violin Concerto with Nathan Milstein, Bruno Walter, and the New York Philharmonic-Symphony, Columbia ML-4001. RCA capitulated in 1950, leaving 45s as the medium of choice for pop singles."
- John F. Morton Backstory in Blue: Ellington at Newport '56 2008 Page 49 "1947.. The following year Columbia made what it regarded as record history, introducing the first twelve-inch LP, Mendelssohn's Violin Concerto in E minor, with violinist Nathan Milstein and the New York Philharmonic Orchestra, Bruno Walter ... Within a year and a half of the introduction of the LP, Columbia had sold twice as many Masterworks as RCA was selling of Red Seal. RCA had begun to lose its artists. Some, like opera tenor Ezio Pinza, would go to Columbia..."