1639年12月4日(当時の英国で使用されていたユリウス暦では11月24日)、天文学の歴史に刻まれる重要な出来事が起こりました。英国の若き天文学者ジェレマイア・ホロックスとウィリアム・クラブツリーが、金星が太陽の表面を横切る「金星の日面通過」を世界で初めて記録したのです。この快挙は、当時の天文学の常識を塗り替え、後の太陽系の規模を決定づける重要な一歩となりました。
Key Facts
- 世界初の記録: 1639年にジェレマイア・ホロックスとウィリアム・クラブツリーが独立して観測に成功。
- 独学の天才: 両者はケプラーの理論を支持し、独学で数学的天文学を習得した。
- 太陽系の規模: この観測データに基づき、太陽系が従来考えられていたよりも遥かに巨大であることが示唆された。
- 英国天文学の父: ホロックス、クラブツリー、そしてウィリアム・ガスコインの3名は、英国の研究天文学の創始者と見なされている。
観測の背景:ケプラーの予測と挑戦
この歴史的観測の土台となったのは、ヨハネス・ケプラーが発表した「ルドルフ表」という天体位置表でした。ケプラーは1631年に水星と金星の日面通過が起こる可能性を警告していましたが、1631年の金星通過はヨーロッパからは観測できず、多くの天文学者は次の機会まで100年以上待つ必要があると考えていました。

しかし、ホロックスは独自の計算により、金星の日面通過が単発ではなく8年周期のペアで発生することを見抜きました。彼は、ケプラーが「ほぼかすめるだけ」と予測していた1639年の現象が、実際には観測可能な通過になると確信した唯一の人物でした。
先駆者たちのプロフィール
ジェレマイア・ホロックス
リバプール近郊に生まれたホロックスは、時計職人の家系に育ち、幼少期から天文学に強い関心を持っていました。ケンブリッジ大学のエマニュエル・カレッジに入学したものの、正規の課程では最新のガリレオやケプラーの理論を学べなかったため、空き時間を利用して独学で高度な数学的天文学を習得しました。卒業式費用を捻出できず大学を去った後、ランカシャーに戻り、研究に没頭しました。

ウィリアム・クラブツリー
マンチェスター近郊のブロートンで布商を営んでいたクラブツリーは、実業家でありながら数学と天文学に情熱を注いだ人物でした。彼は惑星の動きを精密に測定し、ケプラーのルドルフ表をより正確に書き直すほどの能力を持っていました。ホロックスとは書簡を通じて交流し、共にケプラーの信奉者として「ノス・ケプラリ(我らケプラー派)」と自称していました。

1639年の観測プロセスと結果
ホロックスは、太陽の像を紙に投影して安全に観察できる装置(後のヘリオスコープに相当するもの)を考案しました。1639年11月24日、彼はランカシャーのムッチ・ホールにて、午後3時15分頃に太陽面を横切る小さな黒い点(金星)を発見し、日没まで約30分間にわたり観察を続けました。

一方、ブロートンの自宅で観測していたクラブツリーは、雲に遮られ短時間の観測にしか成功しませんでしたが、金星が太陽面にあることを確認し、迅速にスケッチを残しました。このスケッチから算出された金星の視直径は1分3秒であり、これは現代の数値とほぼ一致する極めて精緻なものでした。
![An image of the solar disk Hevelius added to his report, based on Horrocks's description of his observation. The image does not, however, give a true representation of what Horrocks would have seen.[note 2]](/images/ea/e2/eae23a4a9bdf26588aa5547ed68e6320916ffe51b2e195c57f3fa5f854ab9889.jpg)
ホロックスはこの観測結果から、地球から太陽までの平均距離を約6,000万マイル(約9,700万km)と推定しました。これは現代の天文単位(約1億5,000万km)よりは低いものの、当時の定説よりも10倍も大きく、太陽系の真のスケールを提示した画期的な成果でした。
後世への遺産と記念碑
ホロックスは22歳という若さで急逝し、クラブツリーもその数年後に世を去りました。彼らの研究論文『Venus in sole visa(太陽における金星)』は、長らく未発表のまま散逸しかけましたが、後にオランダのホイヘンス経由でヘヴェリウスによって出版され、英国王立協会の大きな注目を集めることとなりました。
![Memorial to Jeremiah Horrocks in St Michael's Church, Hoole. The Latin is taken from Horrocks's report of the 1639 transit and reads "Ecce gratissimum spectaculum et tot votorum materiem": "oh, most grateful spectacle, the realization of so many ardent desires".[22]](/images/78/dd/78dd4c00d932043bae5dfd7e36a18bd5f09714338964310ff7b81f8c970a81bc.jpg)
現在、彼らの功績は各地で称えられています。ホールの聖マイケル教会にはホロックスの記念碑があり、ブロートンのアイビー・コテージ付近にはクラブツリーの観測を記念するプレートが設置されています。


| 項目 | ジェレマイア・ホロックス | ウィリアム・クラブツリー |
|---|---|---|
| 観測場所 | ランカシャー州 ムッチ・ホール | マンチェスター近郊 ブロートン |
| 役割 | 現象の予測と詳細な観測 | 独立した観測と精密なスケッチ |
| 主な成果 | 太陽系規模の再推定 | 極めて正確な金星の視直径の算出 |
| 背景 | ケンブリッジ大学出身の独学者 | 布商であり数学に精通したアマチュア |
Frequently Asked Questions
なぜこの観測がそれほど重要だったのですか?
金星の日面通過を観測することで、惑星の視直径を精密に測定でき、それが太陽系全体の距離(地球から太陽までの距離など)を算出するための重要な鍵となったためです。
ホロックスはどのようにして金星の通過を予測できたのですか?
ケプラーのルドルフ表を深く研究し、金星の通過が8年周期のペアで発生するという法則性に気づいたためです。他の天文学者が見落としていた1639年の機会を、彼は計算によって導き出しました。
観測にはどのような道具が使われましたか?
望遠鏡を棒に固定し、太陽の像を紙の上に投影する仕組みの装置が使われました。これにより、強い日光を直接見ることなく、安全に太陽面上の金星を観察することができました。
彼らはなぜ「英国天文学の父」と呼ばれているのですか?
当時の主流だった伝統的な天文学ではなく、ケプラーやガリレオなどの最新の数学的・観測的なアプローチを英国に導入し、実証的な研究天文学の基礎を築いたためです。
観測結果はすぐに認められたのでしょうか?
いいえ。ホロックスの早すぎる死により論文は未発表のままとなり、数十年後にヨーロッパの天文学者を通じてようやく世に知られることとなりました。
References
- This is the account given by most sources, but Kollerstrom (2004) says that the Rudolphine tables did predict the 1639 Venus transit, but that Kepler had only noticed the 1631 transit while preparing the for that year and had not realised that the tables predicted a second transit for 1639.
- According to Van Roode (2012), Horrocks actually wrote "ad sinistram" (to the left) rather than "ad dextram", as does a letter from Nicolaus Mercator to Samuel Hartlib, quoting directly from Horrocks's own writing. Hevelius thought Horrocks was in error and changed it to "ad dextram". John Wallis also added the note "lege dextram" (read right) after "sinistram" in his Opera Posthuma of Horrocks. Van Roode assumes from this that both Hevelius and Wallis must have been confused about the orientation of the projected image from a Galileian telescope – which is inverted top to bottom, but not left to right. Also. the three disks of Venus are evenly spaced whereas the observations were made at intervals of 20 and 10 minutes. In A. B. Whatton's translation of "Venus in Sole Visa" Horrocks writes:
I found that the shadow of Venus at the aforesaid hour, namely fifteen minutes past three, had entered the Sun's disk about 620 30', certainly between 600 and 650, from the top towards the right. This was the appearance in the dark apartment; therefore out of doors beneath the open sky, according to the laws of optics, the contrary would be the case, and Venus would be below the centre of the Sun, distant 620 30' from the lower limb, or the nadir, as the Arabians term it.
- For the full text of Horrocks's account of the observation see Jeremiah Horrox: "Venus in Sole Visa".
- Horrocks wrote in Venus in sole visa "I do not put forward this conjecture as a certain demonstration, but as a probability".
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![An image of the solar disk Hevelius added to his report, based on Horrocks's description of his observation. The image does not, however, give a true representation of what Horrocks would have seen.[note 2]](/images/ea/e2/eae23a4a9bdf26588aa5547ed68e6320916ffe51b2e195c57f3fa5f854ab9889.jpg)
![Memorial to Jeremiah Horrocks in St Michael's Church, Hoole. The Latin is taken from Horrocks's report of the 1639 transit and reads "Ecce gratissimum spectaculum et tot votorum materiem": "oh, most grateful spectacle, the realization of so many ardent desires".[22]](/images/78/dd/78dd4c00d932043bae5dfd7e36a18bd5f09714338964310ff7b81f8c970a81bc.jpg)

